沼津の漁港から戻れば夕刻ーー沼津便り 6

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18:09。日没まで四、五分か。


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刻み青ネギが翌日もたいへん役に立ってくれた。


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まだまだ明るいうちからの晩酌、慎ましく。


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18:46。港からの帰り、バスから見えた蕎麦屋で軽く締めの晩飯を、と外出。


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静岡における蕎麦屋の老舗「安田屋」は各地に暖簾分けしていて、高校時代の競走部の先輩は大阪の美々卯で修行の後、静岡市内の家を継がれているはず。

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こういう店に来て、はじめからタヌキ蕎麦は頼めませぬ。

蕎麦粉を仕入れるご苦労を奥様が語っていた。かならずしも長野ばかりとは限らない、それでは足りないと。

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丼を横切る緑の一文字は何とニラで意外ではあったが、これはこれで結構だった。蕎麦の盛りがよすぎて、タラフク。半分でいいよ、兄さん…。

勤め帰りの皆さまが一人静かにお食事。閉店は七時半。のんびり飲んではおられぬ。

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オールドプラモデルファンには懐かしい青・黄・赤のマルサン!ーー解かんねーだろーな~……

さすがに静岡は模型の本場。

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大枚1,200円払って全長17センチほどの旧海軍駆逐艦を買ってしまった! べつにエヴァンゲリヲンの綾波レイちゃんがヒイキというわけではなく…。

念のためにコンビニで買い込んだ食料は、けっきょく翌日、箱根の宿での晩酌兼晩飯となった。モヤシを茹でたのと合わせて。


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次回立ち寄るべき食堂を探してかなり歩いたと思ったのに、一万歩少し。道がわからずにくたびれ、見当はついたということにして、途中から引き返す。

宿はこの狩野川のほとり。井上陽水の歌のような「沼津リバーサイドホテル」。


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19:48帰館。前夜訪ねた居酒屋「たか木」には行けず。



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終日沼津、漁港に半日ーー沼津便り 5

この報告の初回は、次女に宛てた手紙に擬して、ちょうどその頃に訃報が伝わった漫画家さくらももこさんに触れたものだった。

このたびの沼津行きを同じ静岡の漁港清水出身の彼女と絡め、どこかに書きつけた覚えがあるものの、探しても見当たらず、戸惑っている。誤って消してしまった原稿の中にあったのだろうか。ーー再び書き起こす気力もない。

漁港が何故か好きで、行く先々で少し足を伸ばし、または直接に港町を訪ねること、野山に樹木、草花を求めて行くのと変わらないようだ。

老父が少年時代を商船学校で過ごしたという富山伏木の町を確かめたときには、その終点の氷見の漁港まで行き、愛媛松山では三津浜漁港に通うこと三たび。オホーツク海に面した真冬の紋別では、凍りついた波止場で働く漁師諸氏を遠くから見ていた。手近の千葉県南部では、保田、館山、千倉、和田浦そして鴨川と連なる。

実用の極みである漁船が港にひしめく風景に美しさを感ずるのか、倉庫の扉の錆びつき具合や壁の剥がれる様が好もしく見えるのか、その周りに生える草や細かな花を哀れと思うのか、それともその近所にある古い食堂で婆ちゃんがこしらえる安くて旨い一皿の煮魚とコップ酒を求めて通うのか、知らない。

「沼津に行こう」と思い立ったのは、バス旅行でよく立ち寄る観光漁港らしいというミーハー気分のほか、ちょうど往復で二百キロくらいのため、JR の「ジパング倶楽部」を利用して電車賃が三割引で行けることが大きな要因となった。

我が家からだと、沼津の一つ先までの往復で規定の距離200キロになり、行って帰って2,700円で済む。四日間有効で、途中下車すれば選択肢は限りないという有り難さ。行きには三島で降りたし、帰りは小田原でいったん降りれば、箱根に寄り道して泊ることもできる。

そういう次第で、二日目は丸一日、沼津で過ごすことになる。

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本物の松林がこの先にあったのだが、暑くて歩く気せず、港のすぐ脇の公園で満足することに。捲土重来を…。

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魚市場で仲買人がトロ箱に置く札ーーかな? セリ場を見物できる二階通路で。

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お遊びモードで漁船を撮っていたまま通常に戻し忘れて食堂に入り、シマアジとヒラメの刺身の瑞々しい切り口が写せていないお粗末!

白身刺身500、ご飯セット300、瓶ビール(中)650。ビールが高くて参ったが、暑かったので仕方なし。

名物の港食堂街は「海鮮丼1500円~」が相場なので敬遠し、ようやく少食者用安価献立を見つける。

なお、朝は我が旅にして毎度お馴染み、セブンイレブンのカップ天そばであった。






三嶋大社お詣りのあとは、いつもの如く…ーー沼津便り 4

神事と俗事は表と裏で、切り離せぬものよう。お伊勢さんには「おはらい町」、冨士浅間神社には月江寺あたりの歓楽街が今に続いている。

(某日の昼下がりに富士吉田の月江寺界隈を徘徊していたら、映画の撮影をしていた。機材を詰め込んだ大型車が三台ほど、そしておびただしい要員。なんでそんなにカネをかけないと映画はできないのかと、単純な疑問を抱く。井筒和幸氏が何を悩むかそれともただ機嫌が悪いのか、ひとりでノロノロと坂を上っていた)

三島の遊所はどの辺りであったか知らぬが、「三嶋女郎衆はヨ~ぉ」とノーエ節に唄われる宿場町だから、町全体とも言えるか……などとボンヤリ思いながら、白滝公園から東海道に戻る。

以前、柿田川湧水地を訪ねた折に寄って五寸の浅い鉢を見つけた古道具屋を探していた。

独り暮らしの酒呑みに頃合いの鉢があったものの、「2500」と値札にあるので躊躇っていたところ、「お値段は考えますから、そう言ってくださいね…」と女主人が優しく声をかけてくれる。

かといって、図にのって交渉する度胸もないので、「ま、ふつうに商売してください」と渡すと、「それじゃ、二千円頂戴いたしましょう」と負けてくれた。ありがたい。酎ハイ一杯分、多く飲める…ほくそ笑む自分がいじらしい。

腹もへっていないが、どこかで休みたい。

と、古道具屋の斜向かいにドンピシャの居酒屋が営業中の札を出している。こういう店にハズレはないのだ。

ーーかくして、ほんとは鰻を食いたいものの叶わぬ爺いの三島飲みが始まってしまうのだった、嗚呼。

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気に入っております。もちろん帰宅して即日常用。


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「美術品」らしきものは目に入らず、古着、古布が半ばを占めているように思えた。


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常連の地元の飲んべえ爺さんたちは、一人一人の言動が面白く、おそらくいつも少し不機嫌な女主人との遣り取りもふくめて、とても記しきれない。一日飲んでいて飽きることはないだろう。


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たしか、コロッケ類は150か100円。


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自転車の酔っ払い運転はイケンよ…


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ちょっと炭水化物が欲しくなり…


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が、やはりこいつを頼まぬわけにはゆかず…


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理想の献立表!

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上々の出来にて……

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ちょっと…ハテナだったかも

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文句ナシ


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JR三島駅まで歩く力、すでになく、伊豆箱根鉄道にひと駅分乗ってしまう。


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ようやく沼津へ。


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珍しくまともなホテルに泊まる。日本人大学生多し。「オメェら、学生の分際でこんな高級ホテルに泊まるんじゃネェ!」と胸の中で毒づきながらすれ違う。クレジットの控えを紛失し、価格不明。おそらく六千円台。


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開かない窓から駿河湾を望む。駅からの道のりは大した距離はなくても、日差しがきつくて暑かった。








横浜駅前『味珍』にて。豚の尻尾から往時を思えば

横浜西口で飲み歩くうちに、クレジットカードを落としたのは、おそらく二十年ぶりほどで訪ねた豚の耳や舌などを薄い醤油味で柔らかく煮込んだものを供する『味珍』での焼酎二杯が効いたのでしょう。

生ビールはありますが、一階カウンターの常連客は皆、ハマ一番にキツい酒の飲み方をします。焼酎が正一合の分厚いグラスになみなみと張られ、それをすこし啜ったところに杏露酒と何かを混ぜた多分甘酸っぱい秘密液を客が勝手に足すのです。

水は出しません。頼むのが憚られる雰囲気で、だれの前にも水は置かれていない。缶の烏龍茶はあります。キュッとやってすぐ帰るのが慣わしです。隣にいた昭和三年生まれの矍鑠とした社長さんは、「いっつも俺は45分で2杯飲んで出るんだ」と豪語していました。

尻尾を頼みました。その昔、野毛にあった泡盛屋『波の上』で覚えた味わいです。その店名のとおり沖縄の作り方でした。黒砂糖と醤油の味でトロトロに煮込まれていて、豚の尻尾一本がそのまま、とぐろを巻くように皿にデンと載っています。あまりにグロテスクなので、長く頼めませんでした。あるときその旨さに気づいてから、親川お婆さんがお店で働きながら崩れおち、眠るように亡くなるまで、さほど年数は経っていません。

親川惟子さんは戦後すぐ、たしかこちらが生まれた二十七年だったかに野毛で泡盛屋を開きました。伊江島の大家のお嬢様で、戦前に眼の手術のためしばらく、病院のあった御茶ノ水で暮らしていたと仰っていたと思います。

その『波の上』では、豚の尻尾を茹でた汁は塩味のみ施したスープとして、丼にたっぷり作ってくれました。刻み韮を底に敷いたところに熱々のスープをグワッと注ぐです。泡盛で痺れた舌にはしみじみとおいしいものでした。冬の日などには体の芯から力がつく気がして、めっぽう旨かった。

こちら『味珍』では辛子、酢、醤油を多めに小皿に取り分け、よく混ぜて付けて食すのが定法らしいのです。が、わたくしの好みとしては、初めは肉のみ齧って拵えかた、つまり茹でかた、味加減などを想像し、次に辛子を少しつけてみる。そして次第に酢や醤油を加え、味の変化を楽しみたい。後半はみなさま同様の食べ方で尻尾を堪能する…。

ところが隣席の昭和三年先達は、初めから全部混ぜるんだとご親切な助言を下さるので、やむなく辛子と酢を混ぜていました。するとカウンターの中の親父さんが腕を伸ばして、酢をたっぷり回し入れてくださる。せめてもの抵抗で、醤油はごく少なめにしておく天邪鬼のこちらなのでした。

焼酎おかわりの時、はじめて缶烏龍茶を頼み、一息ついたことです。

こういう店の通例として客同士の会話は知り合い以外にはしないものです。しかし或る大男の常連がご近所の素人田んぼクラブの話を隣のお連れさんに始めたので、堪えきれず、先ごろ滞在していた会津の稲刈りの具合はまだ一、二割程だったことを話して割って入ると、あとは談論風発。会津猪苗代で撮った稲穂の写真を見せてやると、寡黙だった店の親父さんまでも、自分は新潟の農家の出なのだと切りだして、稲刈りの時期の見極めなどについて講釈を始めるのでした。

ーーそんなこんなで酔っ払ってしまい、そこは現金払いで確か二千円はしないくらい。関内に移って蕎麦屋『利休庵』でイナゴ佃煮とせいろ蕎麦で酒もまた現金で。真夜中前に関内のバーで勘定しようとしたら、クレジットカードが見当たらないのでした、トホホ。

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この挿絵、大谷一郎「野毛ストーリー」神奈川サンケイ新聞社(1986)から無断転載です。すみません…。

『波の上』の写真は、手持ちのものはありません…はずです。その分、しっかり頭に焼き付いています。かえって幸せかも。

野毛の老舗中華『萬里』のご主人、福田豊さんも当時のご常連の一人で、この本の制作協力者。


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(無断転載であること、同上)
『波の上』はこの頃に開店したということか…。


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なまなかな居酒屋より肴は気が利いていて美味く、量もなかなか、値もお安い『利休庵』。


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懐かしきイナゴ佃煮。山形の真室川からの到来らしい。翅もきれいにむしられて、食べやすく、500円。幼時にはよく食卓に出たが、こんなに小さな可愛いものではなかった。

お隣の卓にいた中年男女が注文に手こずったり、酒も入っておらず、どうも気まずい様子だったので、「もしよかったら、話のタネに」と勧めてみた。

それをきっかけに四方山話をしていたら、地元ハマの在住という。こっちは「昨日福島から用あって出てきたところ」とウソをついてなんとか和ませてやったつもり(ま、余計なお節介 笑)。

で、締めは正統の盛り蕎麦。昔、先輩と飲みながら蕎麦を頼んだが、すぐに手繰ることなく酒ばかりやっていたら、こちらのご主人ーー今もご健在で、客に話しかけておいででーーに「できればお早いうちに…」と優しく催促されたのも遠い思い出。すこし乾き加減にした方が、蕎麦つゆがよく絡んで、酒のつまみにはよいと思っていたのだが……。

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白滝公園の湧水から三嶋大社へーー沼津便り 3

駅から三嶋大社に歩くときは、正面の参道からではなく、祓所神社の前から大社の境内に入るのが習いとになっている。

今回はここで異変が起きた。それまで使っていた記録用カメラが狂ってしまったので。モニター画面が真っ白になってしまい、どうしても戻らない。いつぞやも神社での撮影中に同じようなことがあったことを思い出す。

電池の持ちが良いこのカメラをあてにして充電器を持参していなかったので、致命的な事態といえる。

仕方なく、電池がひ弱な X20を取り出し、枚数を気にしながらその先を撮ってゆくこととなった。

しかし翌朝になって宿でよくよく記録用カメラを確かめると、ふだんは絞り優先モードで使っているところ、何とシャッター速度優先になっているではないか! そういえば、前回もこのように、モードダイヤルが知らぬ間にひと目盛り回っていたのだった。

とはいえ、ショルダーバッグに出し入れするだけで、あの固いダイヤルが回るとは思えないのだ…。御神体にカメラを向けたわけでもないのに。不思議。

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このあと、カメラに「異変」が起きた。

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…で、いつもの風景撮影用カメラに切り替えて撮り始める。緑色の階調の豊かさがそれまでとは全然違うのがわかる。もっとも、鮮明フィルムモードで撮っているのではあるけれど。

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中央左下の四つ角でその先どちらに行くか思案していると、白滝公園に傘を置き忘れていたことを思い出した。散々悩んだ末、取りに行くことにし、大通りを北上した。

…そのお陰で、X20で白滝の湧水を撮ることができ、「悪いことは良いことにもなる」という池波正太郎さんの言葉をまた噛みしめることになる。

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三島といえば柿田川の湧水地が有名だが、この公園や手前の楽寿園の存在を忘れてはいけない。

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楽寿園は静岡三島の駅近くーー沼津便り 2

沼津を目指して朝早く家を出て、熱海で乗り継ぐ。「あ、丹那トンネル抜けて函南についたら、次は三島か……ちょっと寄ってくか」と相変わらずの無計画。

「鰻食いテェな…ダメだろな、高くて。あの古道具屋でまた五寸小鉢もらっていくか。大社近くの冷房のないラーメン屋、ツブれないでまだやってっかな…」と思いは尽きない。

下らないことばかり考えながら改札を出れば、「そういえば楽寿園があった!」のだった。

雨はいつから降っていたのだろう。何年か前に来た時、ここは環境の変化により水が湧かずに干上がった池と木立からなる庭園だったのだが、今回は柿田川湧水地で見られるような豊かな流れが突然現れており、驚いた。

木の幹も葉も洗われて色味が落ち着き、雨降り、まことに有難し。

(本来なら FUJIFILM X20でマジメに撮るべきところ、小雨降る中でキャリーケースから取り出すのが面倒くささに、記録用の SONY RX100でごまかそうとしました、失礼)

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小田原に停車していた7時25分、沼津とその手前の三島は土砂降り。
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さくらももこさんを思うことーー沼津便り 1

サクちゃんへ
やはり一度、あんたがそう呼ぶ “サクラ先生” に会わせてもらって、ガハガハ笑いながらーーかどうかわかんないけど、飲みたかったよ……

さっき旅先の宿でテレビみてたら、追悼する小さな特集をやってた

あんたらが幼い頃、日曜の夕方にいつも観てたよな、まるこちゃん…

いつからみなくなったか、忘れた。おれたち家族もいろいろあったからね

思えば、大人がまじめに観て読むべき漫画だったのじゃないだろうか、特に正義ばかりふりかざせばいいというこの時代にあっては

まともな現実を真っ直ぐにとらえながらも、そこから笑いを誘うという組み立ては、さくらさんの正に達観、いやそれ以上の境地のなせる技だろうよ

彼女がお友達のあなた方に、ご自分の、いやそれにとどまることのない死というものをどう語っていらしたか、いつか飲みながら教えておくれ

ほんじゃ、また。元気に暮しておくれ (^_^)/

オトン

『さくらももこ/生きているあいだは、生きていることを満喫しようじゃありませんか(出典、文字づかい不明)』
ーーまったく同感 with tears…

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去った夏の日:Yokohama English Garden 夏の薔薇園 2

夏枯れの様子をと思って向かいましたが、四季咲き薔薇の株は驚くほどの華やかさでした。去る8月29日のこと。

訪れる客もごくわずかで、気兼ねなく花に対面できます。ことに水曜はシャトルバス通わず、レストランも半ば休業。静かで結構この上なし。

薔薇以外の多種の草花との取り合わせがその時々で千変万化、見どころ限りなく、興味が尽きません。庭師さんの知識と技倆が窺われるところです。世界バラ界連合の今年度「優秀庭園賞 Award of Garden Excellence」を受賞したのだといいます。

昨夜の続きで、何の脈絡もなく載っけます。

(パソコンの中の写真の順番とiPadのそれが異なり、ゆうべは朦朧としていてどちらで操作したか定かでないので、もし重複していたらすみません。それにしてもこの項はどこまで続くのでしょう。なにせ2時間ほど居続けたもので、枚数がちょっとオソロシイ…)

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大口ではどこにも寄らず、子安に抜けて新子安へーー横浜下町10月10日午後の放浪 2

駅のホームでベンチに座ることが多くなった。公園のベンチも同様。

サイモンとガーファンクルの “Old Friends” を思い出す。
https://m.youtube.com/watch?v=6YpK-qrGQrg

Old friends,
Old friends
Sat on their park bench
Like bookends.
A newspapers blown through the grass
Falls on the round toes
Of the high shoes
Of the old friends.

二番以降では
Lost in their overcoats waiting for the sunset
また
How terribly strange to be seventy
という一節もあって、身につまされる思いがする。

横浜線小机のホームの待合室にしばらく退避していた。かなり蒸し暑く、次の電車まで間があったので、冷房の効いたところにいたかった。我慢などしたくない。

大口商店街の中ほどにある石川屋酒店の「角打ち」に行こうとしていた。地元の飲んべえジジイや変なオバさんが朝九時から酒屋の左側を仕切った鰻の寝床で立ち飲みしている。
https://tabelog.com/kanagawa/A1401/A140211/14035047/

このような安居酒屋を北のほうでは「もっきり」と呼ぶのだろうか。酒を枡やコップに「盛りっきり」という意味なのか知らないが。

つげ義春の『もっきり屋の少女』に描かれるコバヤシチヨジは『紅い花』のキクチサヨコと同じ顔立ちでおかっぱ頭があどけなく、馴染みの男どもになぶられるのが哀しかった。

また札幌のテレビ塔の後ろ、創成川を越えた裏通りにに『第三モッキリセンター』という店が繁盛していて、札幌を訪れるときは必ず寄る居酒屋なのだが、こちらも元々は酒屋の一隅の立ち飲みであったと、いま確認できた。
http://www.namaraumai.net/sapporo/daisanmok/index.html

ここ横浜大口の石川屋酒店には手洗いなどあるはずもなく、はす向かいの商店街コミュニティセンターを利用する。「お店に入る前にチョット…」と立ち寄ると、数日前にカウンターで隣り合った七十台半ばの先輩に出くわしたのには、互いに笑い合うしかなかった。すでに頬を赤くしていらっしゃる。政府中枢の官庁に二十年以上勤めて何故か退職、タクシー運転ほかを続けて今は引退し、日々家庭菜園の手入れで忙しいお方。

店の口から中を覗くと、客が立て込んでとても入れないので、商店街をさらに進み、国道を渡って大口通一番街をさらに抜けてゆく。

こちらは寂れかたが一層進んでいる。昼どきに入れるような適当な店もない。ただ、通りのはずれ、線路に近い方にある販売専門の焼き鳥屋の兄さんだけ独り気を吐いて、いい照りをした様々な種類の串を焼いては積み上げていた。一本買って路上で中途半端な腰つきをして立ち食いしているオッチャンもいた。

線路沿いの通りに老舗の蕎麦屋『長寿庵』がある。かなり気持ちが動き、戸を開けようとまでした。早く腰を落ち着けたい。しかし食欲が全然ないことを思うと、様子の知れない蕎麦屋さんで酒だけというのも憚られ、已むなく通過するのだった。

こうなれば歩き続けるほかない。無心に歩き、街を見て、撮るしかない。

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そのまま名高いーー「悪名高い」というのが適当かーーJR の大踏切を渡るのだった。何せ、横須賀線、東海道線、湘南新宿ライン、京浜東北線、横浜線の各複線すべてが来ない間に、一どきに渡らなくてはならない。

この前の東京オリンピックの前の年には、この少し東京寄りで生麦事故という複合脱線事故があり、四百人ほどの死傷者が出た。当時鶴見に住んでいたので、父の無事を問う電話が祖母から入ったことを思えている。

常々この辺りを電車で通過するたびごとにその事故が頭によみがえってしまうのは、一種の精神的外傷なのだろうか。べつに解消させたいとも思わないが。

一息つくと、こんどは京浜急行線の踏切がある。それを渡って左へ。子安から新子安までの裏道をなお進むのだった。

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国道沿いに植えられた街路樹の葉が先の台風で強い潮風にさらされ、縮れているのを見るのが辛かった。わが家の近所の銀杏の様子も、あまり芳しくない。今年の紅葉は風情のないものになりそうだ。

日は傾いてきたが徘徊は続く。

その筋の連中、ま、われわれ貧乏飲んべえには有名な市民酒蔵『諸星』は、まだまだ開かない。

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まずは小机、雲松院へーー横浜下町10月10日午後の放浪 1

寒暖の変化について行けない。体温の調節が思うようにゆかず、前の晩からまた風邪ぎみでフラついてはいたが、寝転がっていても隣のマンションの足場組み立てほかで騒がしいので、昼メシも食わぬまま家を出たのは昨日のこと。行先など決められはせずに、足の向くまま。

ここ新横浜の線路向こうにはラブホテル街が50年ほど続いている。東海道新幹線が開通した当時、駅の近辺にはその手の建物しかなく、小学生だった我々悪童どもは、何かと話題にしたものだった。

それらホテルは、主な地区はすっかりビジネス街となった現在も続いていて、新興のマンションとともに、独特のビル群をなしている。

そのただ中にある公園のベンチにぼんやり座っていると、こちら同様に行き場がなかったり、孫を遊ばせている老人とともに、愛人か誰かを待つサラリーマンが混じることもある。

きのうも実直そうな中年男が意外なことにタバコを何本も吸い散らかしていた。それを咎める気も起きない。電話をかけているなと見ていると、急に荷物をまとめて立ち上がる。その先、公園前の小さなスーパーマーケットの方には同年配で肉付きのよい婦人が佇んでいるのだった。

素人風の地味な格好だったが、間柄を想像しても詮ないので、こちらも立ち上がって反対側に向かった。

そうすると、小机の方にゆくしかない。婆さん食堂の『桜家』で玉子丼でも作ってもらうか、新しく出来たイートイン/角打ちで一杯やるか、酒は飲みたくないな……などと思いながらバス道を行く。

いつも立ち寄る曹洞宗のお寺、雲松院で柿の葉の色づき具合を眺めていると、「こんにちは」と声を掛けてくれる方がいて、振り返ると、掃き掃除をされていたらしいご住職のようだった。

すでに2時近いというのに、何も食べたくない。

暑いので小机城址の方にある金剛寺まで足を延ばす気も起きず、電車で隣町に移ろうとするのだった。隣といっても、菊名か大口かその先か、あてはないのだった…。


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詰まるところは Blowin’ in the Wind か?ーー会津から戻り、つれづれに

九月はほとんど家に落ち着くことなく出歩いていました。まあ、諸事かさなってというところで。ご報告はまたいずれの日にか…。

ようやく一段落し、福島会津から戻ることにしていた昨日は、嵐が来ぬうちにと予定時間を早め、郡山始発の東北新幹線自由席で悠々と戻ってきました。

東北新幹線「なすの号」は後部の自由席でした。一両に数人しか乗っておらず、弁当が福豆屋の「海苔のりべん」であること、昨年の今ごろ会津を訪ねた帰りと同様。しかし、今年は美味しい塩鮭焼きがずいぶん頼りない大きさで、ありかを探して引っぱり出すほどになっていたのが、ちょっと残念でした。

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ちょうど日付が変わった時から急に大荒れの天気です。台風二四号。電線は恐ろしい音を立てて唸り、公園の大木が大揺れしています。

あまりの風の音に寝ていられず、ビデオカメラの埃をはらい、真っ暗に近い外をベランダで録画しました。もの凄い雨風の音だけは録れているでしょう。

かれこれ三時間。それもようやく収まりつつあるところ。

眠れないので当てずっぽうに YouTube をながめていたら Peter, Paul & Mary のテレビ番組らしきものが出てきて、聴き入っていました。わたしが彼らを知ってレコードを日々聞いていたちょうど1965年制作の番組です。
https://m.youtube.com/watch?v=qdcapT2Tdag

今から考えれば、甘ちょろいことを歌っているのですが、当時は皆まじめにーーここが現在と違うところで、ことに今の日本は狂信的にさえなっているーー平和や平等を考えていたのでしょう。スタジオの若者たちの顔つきからそれが窺われます。

可哀想にそのあとで彼らは(当然のことですが)挫折して love and peace and togetherness なんぞと唱えながらヒッピーとなる者が出れば、また踏みとどまって矛盾を抱えたままにいた連中の成れの果てが、結局はいまになって露わな分裂と分断を迎えているのかと、勝手に思っています。

それはともかくとして、この聖母と二使徒の歌声の一途さと美しさ、そして完璧さには、半世紀以上経てなお惹かれるのです。









思い出の地でーー旧友との奇遇ありがたく

高校受験の時に初めてこの駅に降りてから五十余年。思えば永年この地と共に過ごしてきたもので…。

大学を一年留年して卒業することになっても就職に失敗し続け、結局その学校の事務職員として拾ってもらい、定年のずっと前で辞めて六年が経とうとしている。

某日の夕方、年来そこの昔風ラーメンを気に入っている『王府』で月一度の飲み会を開くことにしていた。

夏の盛り、世田谷美術館を訪ねたあと、その近所に住まう大学以来の友と二子玉川で会った。すっかり忘れていたのだが偶々わたくしの誕生日で、お祝いだと言って、奢ってもらった。

その帰りに「ちょっとラーメン食ってくか」と途中下車して王府に寄ったものの、ビールを頼まぬ訳にも行かず、皮蛋を切ってもらって飲んでいたら、腹一杯になってしまった。その掛け汁の味が素晴らしく調和がとれ、皮蛋に付かず離れず。合っていると思った。

けっきょく、ラーメンは食えずじまい。

近ごろこういうことが多い。アタマでは食べたくても、カラダが受け付けない。しぜん、自宅の台所でその時に食いたいものを自分で調理することになる。まあ、カネがないので外食や持ち帰り食ができないというのが実際のところなのだが…。

で、王府で思いついたのが、二子玉川の彼も含む元の仕事仲間との月例飲み会(ーー「ガケップチの会」と呼んでいるのだが)をこの店で開くことだった。

カウンターと小さな四人卓が四つ直列する小上がりだけという店は、飲み会には極めて不自由なのだ。腰痛持ちのこちらには最悪の座席環境。

しかし、いつも学生相手に “肉チャーハン” ばかり作っている兄さんに、たまにはその優れた腕をふるわせてやりたいと思い立ったのだった。献立にはふつうの町中華より二段ほど上のものが挙がっているが、平日に酢豚を頼む客はいない。

一次会から中華ということは、かれこれ十年に及ぶガケップチの会でも、ちょっと珍しい。

「予約を…」と奥さんに頼んでも、そんなもの受けていないという。まあそうだろう。勝手に日を決めて適当に来ると言って店を出た。

当日ーー。

その街にある大学のキャンパスに移ってきたと聞いていた元同僚の女性に会おうとして行ったところ、この春の異動で別のキャンパスにかわったという。

まるで「母を尋ねて三千里」だね、と笑い合ったのは、これまた元同僚であった女性。この総務担当に移ってずいぶん経っている。異動してしまった女性の息子たちにと土産に買っていったドイツ風の菓子パンを彼女に押し付けて部屋を出た。(ほんとうは自分で食べたかったのだが、まあ、先輩の余裕も見せねばという見栄と痩せ我慢)

仕方なく構内をぶらぶらしたが、学生がいない。夏休みがまだ続いているらしい。

こちらが以前働いていた研究棟をそっと覗いてみると、知り合ったきっかけを覚えていない飲んべえ君が書類の片付けをしていて、しばし談笑するうちに我がガケップチの会をご存じなのには、「これはヘタなことはできぬワイ」と軽い自覚を促されるのだった。

時間が経つのが遅い。

ガランとした学生食堂には同好会の集まりらしい十人ほど、部外の研究者なのか真面目そうな中年男女数人ほか、人を待つのかスマホに見入る学生がちらほら。

こういう場所は苦手なので、夕方会う連中に「只今キャンパス内にて所在なく過しおり候、『HUB』(構内で営業しているパブ)は既に開きおれるか? 今更ながら大学のキャンパスは浮浪者の居場所として最適!」などと、どうでもよいメールを打ち終えると席を立ち、ふたたび彷徨い続けるのだった。

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ーー高校から大学にかけて世話になったグラウンド。当時は土の走路(シンダートラック)だったが…。この季節、練習で疲れ果ててスパイクを手の指から下げて部室へ帰る道すがら、トラックを見下ろせるところに金木犀の花がよく香った。その木はおそらく残っているはず。

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パブの窓辺でキューバリブレ(L)何と270円を啜りながら、「これをお代わりしたら今夜は勝負にならぬな」と、べつに勝負の相手もいないのだが、いちおうは万年幹事なので、責任感の欠けらは保とうとしていたのが、我ながらいじましい。

雨の中に歩き出しても約束の時間はまだまだ先。その前にどこかの飲み屋で過ごすしかない。今どきの喫茶店は、滞在時間の間合いが計れないので、御免だ。

五時に開いていたはずの『寅さん』の前をそれとなく行ったり来たりしてもその気配がないので、反対側の『鳥よし』へ向かう。すでにこの日は八千歩近く歩いており、降り込められている折から、早く落ち着いて坐りこみたい、酒は二の次にして。

ところが鳥よしの焼き台前の開いた小窓から見えるのは、いつもの姐さんではなく、見慣れぬテカテカ頭のオッサン。

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「おかしいなあ、誰じゃ、ありゃ」と路地に入ろうとしてふと気づくと、傘をさしてこちらに歩いてくる男には見覚えがある。「おお、エビヌマ君じゃないの!」と珍しく人様の名前がすぐに出てきた。そういえばこの先の職場に移ったと聞いていた。十年以上会っていない互いの近況を話し、この先の望みを語って、名残惜しく別れるのだった。

さらに驚いたことは、店の戸を開けると、思いがけぬ顔、顔……。昔、病院の事務局で働いていたころに行き来し、昼も夜も親しくしていた他部署の面々が四人まとまっているではないか。さらにもう一人、就職したてのころ特に親しくしていた先輩も来られるという。

また、テカテカ頭の調理人をよく見れば、何と、以前は病院の患者食調理を担当していて、就任年がこちらと同じワタベくんではないか。

あまりの奇遇と懐かしさに、そのあとの月例飲み会に行くのはやめて、こちらに居続けようかと思ったほど。

ところが、間もなくやってきた先輩ナゴヤ氏が言うには、この晩、この街にわたくしが来ていることを知っていたと。なぜかといえば、午後半ばに学生食堂から戯れに打ったメールを、宛先四人のうちの一人、コイデくんが、今やその上司である先輩に見せたというのだった。

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となれば約束をスッポかすわけにもゆかず、『王府』でのガケップチの会に向かえば、三々五々集まった連中は、おふざけメールをきっかけに、『鳥よし』に集結している連中の話題、そしていつもの四方山話が弾むなか、皮蛋、蒸し鶏、海老玉子炒め、肉野菜炒め、白菜のクリーム煮、レバニラ炒め、餃子、炒飯はいずれも単純かつ洗練された味で評判は上々、いつもは芋焼酎ロックばかりで、めったにおかずを口にしない二子玉川の友、トミヤマも珍しくしばしば料理に箸を伸ばし、そして当然のこと麦酒と麦酒、紹興酒と紹興酒と紹興酒が続き、満足してのち、ごく自然に鳥よしの飲んべえどもに合流し、狭い店の中で席を替りながら、杯はどれが自分のものか分からぬまま手当たり次第、乱痴気騒ぎのうちに夜は更けてゆくのだった……。

誠に悲しいことに、あの姐さんは、今年のはじめに癌で亡くなられたという。合掌

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年に一、二度しか来なかったけど、長いことお世話になりました。今夜はお弔いの酒です。涙のせいでもなかろうにピンボケです、ゴメンね。



(外出時に使う老眼鏡を多分この店に置き忘れたまま、もう十日以上経ってしまった。取りに行くとまた飲んじまうからなぁ……)




滝を観に行き、滝から戻るーー常陸大子日記 4

袋田の滝は大子の一つ南にある袋田駅の東方。駅から歩いても行けるが、今どきの皆様はクルマで乗りつける。

絶好の歩き日和だった。滝そのものより、そこにたどり着くまでの里や田畑の様子を見たかった。

ずいぶん前に独りで山を越え、滝に出たような覚えがあった。それを前もって確かめるような殊勝な心構えもない。帰宅してしばらくして、ふとした拍子に昔の記録帳を引っぱり出してみた。

ちょうど四半世紀前、前厄の年。鬱病で長期に休みをもらい、落ち着いたころに、当時介護施設に入院していた祖母を見舞った帰り、水郡線をさらに南下した西金というところの温泉宿に一晩世話になり、翌朝、どういう道を辿ったのか、袋田の滝に行っていたと書いてある。簡単な地形図を頼りに歩いたような記憶がある。

今はもう山を越えるなどという無謀なことはできない。袋田駅からの近道を、それでもできるだけ車の通らぬ道を選んで滝を目指した。

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ーーくたびれたので帰りはバスで駅に戻ろうとする軟弱さは、トシのせいということにする。時間待ちに近くにあった食堂で蒟蒻を頼み、「お酒もね」と付け加えたら、ないという。「味醂がわりに使いかけのワンカップならオマケしてお出しできるけど」と老女がいうので、もちろんお願いした。申し訳ないからと、蒲鉾をたっぷり出してくれた。こんなときは、その心遣いの分を足して勘定するのが老人のたしなみと思っている。なぁに、次に訪ねた時にもし覚えていてくれたら、またオマケしてくれることをーー期待なんてしていない。エエ、いませんとも。

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北の贅沢メシ、オラのメシーー常陸大子日記 3

北海の地に出向き、八月中旬というのに日々雨と寒さに震えーー本日はおそらく10度台ーー冬の下着を買いためつつある近江の国在住の旧友と、同じく旅の空のもと、 メールで馬鹿話を交換している。

毎晩その土地名産のビフテキやホタテ定食などを堪能しているというヤツに返して……

「宿代を払わんで済むお方は贅沢ができてよいのぅ…。
こっちの食事事情、以下の如し。
◯きのう
朝:駅前そば屋でタヌキうどん(だったかな?)
昼:町営温泉で コンニャク刺身と鶏唐揚げ、ビール(大瓶スーパードライ)と麒麟淡麗500ml。はじめから自販機の淡麗にしておくべきじゃった!
晩:疲れて外出できず、ヌキ
◯きょう
朝:駅前そば屋で 納豆飯380にかき揚げ120追加
昼:袋田の滝近くの茶店で 鮎塩焼400 ワンカップ350
同:駅までのバス待ち合わせ1時間の間にドライブインで こんにゃくさしみ定価300、店の婆さんが料理用にちょっと使った残りのワンカップ定価350、サービスの板わさ。計1000支払い。次回への投資也
晩:大子の街中の天ぷら屋で タコブツ700、出し巻き卵600、野菜天ご飯(海老天丼1000、飯半分と頼んだら海老は売り切れたと)、いずれも極上の出来。茗荷は天婦羅も胡瓜との塩もみもしみじみとうまい。酒二合×2 計3600?→この旅最後の晩餐ナリ」
ーー以上

なんだか毎日コンニャクばかり食べているようだ。なんでもないものをマジメに作ってくれたものが一番うまい。そう言いながら、土産用のひと籠600円というのには手を出しにくい。一皿300の刺身蒟蒻に抵抗はないのに、何なのだこの金銭感覚!

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大気入れ替わったこの朝にーー常陸大子日記 2

携帯電話の呼び出し音に目を覚まされた朝六時少し前。「おかしいなあ、目覚ましは掛けてないのに…」と、何のためらいもなく音を止めた。

設定を確かめようとガラケーのフタを開いてみると、不在着信ありと表示されており、はじめて今のは電話であったかと知る寝呆けようなのだった。

そして、そういえば電話呼び出し音をやわらかな音色に変えていたのだとも思い出し…。

画面を見ると相手は四歳年上の叔父。朝の散歩の途中に違いない。こちらはまだ白河夜船の最中でも、第二の人生である蕎麦屋店主のアンちゃんにとっては、すでに日課が始まっている。

あわてて掛け返してみると、「いやー、掛けるつもりねがったんだげっとも、間違って触っちゃったんだ」とのことで、「なーんだ、目覚ましと取り違えたこちらと同じ呆けではないの」と、笑いあうのだった。

すこし話してみると、今朝の白河の在は、とても涼しいのだと。そういえば、一昨日から寝ている大子町のこの部屋も寒いくらい。

なお、この民泊所はカフェの裏部屋で、元はといえば、この町で大きな病院を経営していた理事長さんのお屋敷だったそうな。着いた日の夕方早く、駅前の『玉屋旅館』で名物の奥久慈軍鶏親子丼をこしらえ、二階の座敷に運んできたニイちゃんが教えてくれた。

さて、電話を切ったあと窓を開けようとして、木枠のガラス窓についた昔なつかしい鍵をクルクル回して外し、廊下への扉を開け放てば、さらに清新な空気が吹き抜ける。

あきらめていた袋田の滝見物に行ってみようかと思いはじめている。ほんと、ぜんぜん動けなかったからなぁと、この夏を振り返りながら。

ここふた月ほど続いたあのムンムンとした熱気は何だったのか。

窓の外からサンコウチョウかどうかわからないが、「ひょいひょい、ひゅーゆー、ふいふい」と人が喋るような囀りが聞かれる。昨日早朝に散歩に出た折、近所の十二所神社境内で聞こえたのと同じ鳥クンのようで。

それにしても腹がへった。きのう町営温泉の休憩室でやったビールが効きすぎたと見えて、晩飯を食いに出る気力がなく、店が開いていないことも考えられて億劫でもあり、晩飯を食っていなかった。

大子駅前の蕎麦屋のツユは、東神奈川のホームにある立ち食い「日榮軒」のと同じく、じつに濃くて味わい強いもので、旨い。下手味とも何とでも言え。少なくとも、好みだ。何時に開店だったっけ…。

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気分だけでも「道の駅滞在」ーー常陸大子日記 1

数日前から北の地でクルマ放浪を続ける旧友を真似るわけでもないが、早朝から道の駅のベンチ。蚊も人もいないのを幸い、朝から缶チューハイをプシュッと開けてぼんやりしている。

故郷での新盆の集まりのあと、寄り道しながらの帰りに北茨城の大子に立ち寄った。今を去る25年前、鬱病を発した始めの頃になぜか横浜から逃れてきた土地で、駅前の古い旅館「玉屋」に親しんで、それ以来幾度訪れていることか。

このたびは民泊の世話になってはいるが、自分が他人の物音に過敏なうえ、隣室の客に気兼ねもして、不眠の末の夜明けに非常口から忍び出て、あらためて町内を巡った。

途中の街道沿いにあったコンビニストアで散々迷ったあげく、本能の命ずるままに買いこんだチューハイとソース焼きそばの朝食。

不味い焼きそば。「仕事だ」と思って食べ物を作らせ、作ると、こうなる。

まあ、いい。道路を挟んだ向こうには久慈川が広々と穏やかに流れていて、時おり涼しい風が吹き抜ける。

得体の知れぬ熱気に封じ込まれた南関東に戻りたくない。友人と水戸で会う話が立ち消えになったので、宿泊延長希望のメールを家主にあてて先ほど打ったところ。

ゆっくりと手足を伸ばして温泉に浸かりたいのだが、道の駅付設の温泉は、まだまだ11時から。それまで町中を歩き廻るゆとりもなく、昨日午後と先ほどで歩き尽くした。袋田の滝までは6キロ。どうすりゃいいの思案橋……。


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小憩『相生食堂』ーー上田の街で 4

昼めし時はとうに過ぎているのに食欲がわかず、名物の蕎麦さえも食べる気がしない。

こんなときは食堂でチビリチビリと酒すすりながら何かつまむ。

結局のところ、路地を入ったところに頃合いのお店が見つかり、転がりこむこととなった。

酒一合350(お通し3品含む)、揚げ茄子300。酒のお代わり。これで胃袋が動き出したか、ラーメン500を…。

ご主人夫婦のご飯のお供なのだろう、生姜のたまり漬けを出してくれたのが旨かった。

折からサッカーワールド杯の振り返り番組が流れ、近所の常連ジジイたちのほか、部活動帰りの高校生三人が観入っている。結果は分かっているというのに…。結果でなく経過が大事、か? ま、どうぞご自由に。


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(上田 相生食堂 https://tabelog.com/nagano/A2004/A200401/20007113/







町の本屋さんーー上田の街で 3

歩きの大会としてはかなり辛いコースの部類に入る「飯田やまびこマーチ」には、たしか九回ほど参加している。飯田は南信州の中心都市。毎度ふた晩泊まりで、体育館で雑魚寝するか、後には畳がフカフカ沈むような安民宿に度々世話になっていた。

しぜん、飯田の街をくまなく歩くことになったが、いつも感心したのは、中心街にある書店がしっかりとした経営活動を続けていること。およそ今どきの「地方都市の書店」には見えず、主要都市のそれに引けをとらなかった。

長野は教育県といわれるほどだから、書籍雑誌の需要も多いのだろう。そう考えていた。

東信州の中心である上田も同様に、中央通りには書店が健在だった。一キロほどの間、目についただけで三軒。

ただ、そもそも人通りがない。このうち一軒では店終いの挨拶状だろうか、シャッターに小さな紙が貼り付けられていた。

残る二軒の様子を外から窺っても、客はいない。

立ち寄った食堂に部活動帰りの高校生らがいたが、スマホをのぞきながら飯を食う連中が書店で立ち読みする姿を想像するのは難しい。

かく言う老生とて、本屋さんから遠ざかって久しい。待ち合わせの場所に指定するくらいのもので。

年に二度ほど会う友人は、婦人雑誌で有名な出版社の営業を長年担当し、西日本の書店を巡ってきたが、今や他社に吸収された。書店の衰退を身をもって体験してきているだけに、嘆きよりも静かな諦めの境地にある。

この上田の街の本屋さんも同じ流れにあるのだろうと、今回訪ねてまた諦めるほかないのだった。滅びゆくものに対して「頑張れ」と励ますのは、無責任かつ残酷だから。

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いちおう昔の町並み、されど… ーー上田の街で 2

旧北国街道の町並みが柳町というところに残っていると案内にあったので、お城跡から西に向かった。

途中、民家の庭先に咲く凌霄花(ノウゼンカズラ)や鬼百合の赤花を眺め、盗み撮りしながら十分程で保存地区の入り口にたどり着く。

漆喰壁、なまこ壁の倉や古びた商店が並ぶ様は結構なもので、少し離れたところにあるお寺の境内に湧く清水を木の管で引いている「保命水」は冷たくて豊富。ペットボトルの生温かくなった水を入れ換えるのだった。

とはいえ、町並みには気になるところもあり、人口の減少と観光地の問題は、後に尾を引くのだった。

古くからの生業が残っているのは味噌屋、造り酒屋、蕎麦屋や餅屋くらいだったろうか。

あとは、構えは昔のまま、カフェや安直な土産物屋に変わっている。同じ長野県松本の一部の通りや岡山県倉敷の美観地区(なんと薄っぺらな名称!)と同じ狙いなのだろう。「昔の町並み」を保ちながら「今の人々」に来てもらう。

若者、ことに女性客を引こうとしているのだろうが、うわべだけ合わせて客を増やすのでは、その町本来の魅力そして町の歴史を伝えることはできないだろうに。

さらに言えば、観光客は若者より中高年の方が多く、年寄りは落ち着きを求める(「それはお前だけだ」とからかわれるか?)。老齢化が進めば、ますますその度合いが強くなるわけだ。なのに、このように安易な商売の仕方でよいのか。

平日のこの日、柳町の通りで見かけた観光客は、三組程だった。昼食時にかかわらず、お店は閑散。静かでよかったのではあるが、すっきりしない気分で上田駅に向けて歩いていた。

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