「世界の中心で、愛をさけぶ」再見――悲しいときは悲しく過ごすべし

ツクツクボウシが鳴いている。夏も終わろうとしているのか、晴れ上がり、湿度は低く、心地よい一日だ。夏の終わりは秋のはじまり。
・・・・・・・・・・・

「夏之日 冬之夜 百歳之後 歸千其居」 夏の長き日。冬の長き夜。あなたはここに眠っている。百歳の後、私もいずれはあなたの元で眠ります。

松本朔太郎の祖父が出征のおり、人妻である好いて好かれたその人の写真の裏に書きつけ、胸にし続けた詩。帰還したとき、その人は亡くなっていた。

祖父は朔太郎を連れてその人の墓をあばき、遺骨を少し盗んだ。自分が死んだら、その人と自分の灰を撒いてくれと頼む。男の約束だぞ、といって。

間もなく祖父が急死したとき、朔太郎は不思議にも悲しみを感じなかった。

朔太郎とガールフレンドの亜紀は、今は廃線となったが、祖父たちが別れを交わしたであろう駅に向かった。それは祖父との約束だったから。晴れた夏の日。廃駅のホームで、さし出した朔太郎の手のひらに亜紀が二人の遺灰をのせる。
「風、こないね」と朔太郎。
「ま、のんびり待てばそのうち吹くでしょ」

と、一陣の風が吹きぬけて、遺灰はあっけなく空に舞い上がり、まじって、かき消えた。祖父の思いは達せられた。

あるとき、亜紀を家の近くまで自転車にのせて送った帰り、一人で走るペダルはあまりに軽かった。

――十二年前の夏、幼い朔太郎は祖父に助けられて自転車の練習をしていた。幾度も転び、膝を傷だらけにして。きょうはもうあきらめようとしたとき、祖父が前の方で大きく手を広げ、「サクタロー!」と気合を入れた。一心にペダルをこぎ、ハンドルを操って、まっすぐ祖父に向かって走った。乗れた。祖父は孫を抱き上げた。「これからはどこへでも連れてってあげるよ」と朔太郎は約束する。

そんなことを思いながら自転車を走らせていると、ふいにペダルを踏み外し、転んだ。別れるときに朔太郎が気がかりだった亜紀が走り寄る。彼は泣いていた。
「ペダルって軽いんだよ……ひとりだと」
「これからは私が太っておじいちゃんの代わりに乗るよ」

朔太郎が泣きつづけると、亜紀は両手を広げた。その心は、十二年前の祖父の心と同じだったかもしれない。すべてをゆるす、君は正しい、私の胸にとびこみなさい、と。

「世界で一番美しいものを見た」
「世界で一番優しい音を聞いた」

祖父とかわした二つの約束への思いが重なり、いや増す。
「おじいちゃん。好きな人を亡くすということは、どうして辛いのだろうね」

朔太郎はそのとき祖父を亡くし、つづいて、それを慰めてくれた亜紀さえも亡くさねばならなかったとは……。

――それから十七年。朔太郎は、過労により入院することとなったが、勝手に脱け出し、永く帰ることのなかった実家に戻る。失った亜紀のことをまだ忘れることはできない。いや、忘れようとして、ひたすらに病理診断医の仕事を続けた末の過労であったともいえる。その遺灰は小さな瓶に入れていつも身につけていた。

突然入院先からいなくなった朔太郎を心配した友人の女性・小林が幼い男の子とともに朔太郎の家を訪ね当てた。或る夜、縁側で呆然と座り込んでいる朔太郎。小林に頼む。
「ねぇ、抱きしめてもらっていいかな」
十七年前、亜紀に、そしてその十二年前に祖父に抱きとめられたことを想い、いままたその救いと慰めを受けたかったのだろうか。あるいは、二つの記憶を再びたどろうとしたのだろうか。

・・・・・・・・・
――疲労が重なり勤めを休んで、偶然にもこの「世界の中心で、愛をさけぶ」の第三話に出会った。何度目の再放送か。

数年前、同じように疲れて休みを取った午後、このドラマの再放送をはじめて観て、まもなく一人で泊まりに行った会社の保養所でも寝転がりながら観ていて、その悲しさを思い、ながれつづける涙で純粋になってゆく己の姿を感じていた。まもなくドラマのDVD完全版を買い求め、その正月休みは自室にこもって観続け、泣きつづけていたものである。

それが女々しいことか、ただの流行に乗ったものか、なんとも言い切れないが、己の心に素直になることに近づく点においては益あるものだったかもしれない。もしそれが益といえるものならば――。

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この記事へのコメント

まてさんへ
2006年09月06日 20:15
 かわいい犬君の文字、楽しめます。
 それを捨ててきた本宅では猫を飼っていて、ある時期には二匹いました。動物はコリゴリです。人間の生活に入り込みすぎます。
 人と人の煩わしさから逃れてきた者には、物言わぬ植物がよりいとおしく思えます。この家に越してきた半年前、友人から贈られた(というより、押し付けられた!)オモトなどからはじまって、ベランダにはもう、棚でも買わないと、植木鉢が置ききれません。菊とポトスを差し芽したのが急速にふくれあがっています。本宅では机の上にちぢこまっていたコーヒーの苗は、肥料をやってベランダに出したら、葉の長さがそれまでの五倍を超えて生い茂り、根元の苔ばかり目立っていたポトスも、びっくりするほど葉を伸ばし、ひろげています。
 暑い中を帰宅すると、するのはまず鉢に水をやることです、「ただいま」と言いながら。
 それも今夕の涼しさでは、お休みです。
まて
2006年09月06日 15:32
植物を育てるのも良いかとは思いますが、猫などを飼われてはいかがでしょうか?
犬だとお散歩が大変ですが。
o(^^ )o--------⊆^U)┬┬~...
まてさんへ
2006年09月05日 22:42
ご来場感謝します。読んでもらえないと張り合いがないモンで…。
江戸時代だと思いますが、白隠という禅の和尚さんがいて、病む時は病むようにというようなことを言っておられたといいます。ありのままの自分を受け入れろ、と。でも、あんまり自分ばかり見ていると、なまなかな心では、自分が壊れてしまうんですよね。このへんがむずかしい。
まて
2006年09月05日 05:30
カタルシスか・・・アタクシも哀しい時は哀しい曲を聴いて寂しい場所に行って、哀しみにどっぷり漬かるのが好きです。泣くのもいいですよね。
ちびさんへ
2006年09月02日 04:25
カタルシスということがありますよね。辞書によれば、悲劇を見ることによって鬱積した感情が開放されて、快感を味わう。また、精神的苦悩を外部に表出することによってコンプレックスを開放する。=浄化。「世界の中心…」は、いつも悩み深いわたしにとって、そのことであったことを知ります。スヌーピー にもその記述があるのですか。意味は深長ですよね。子供には分かってもらえないでしょうが。ありがとうございます、おしえていただいて。ちびさん、サイト(というのかな?)はないのですか。もしなかったら、はじめられたらいかがですか? きのうは日中疲れ果てて、早い時間に寝て、起きて飯を食い、また寝たのですが、四時前に目覚めてしまいました。こんな自由な朝は“楽しい”もの、もうけものです。
ちび
2006年09月02日 01:11
スヌーピーの生みの親であるシュルツの絵本に『Happiness is・・・』というのがあります。子供向けの絵本(まあ、絵本には子供向けも大人向けもないかもしれませんが)ですが1ページ1ページにしあわせとは・・・の例が出ている。たとえば「しあわせとは・・・お休みの日の朝」みたいな感じ。ほかの「しあわせ」は忘れちゃったけれど、ひとつ、子供心に忘れられなかったのが「Happiness is a sad song(しあわせとは悲しい歌)」というものでした。ちょっと大きくなるまではこの意味がわからなかった。本当に悲しいときに悲しい歌を聞いて泣きつづけたあと、洗い流されたような気持ちになって、この「しあわせ」の意味を知りました。「しあわせとは楽しい歌」ではないんだな、と。

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