あれはどなたの筆によるものかーー今と昔、書道塾は変わらず

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いつも訪ねる馬場花木園(横浜市鶴見区)の近所には六十年以上も前から書道塾が続いています。若かった頃の老母も、付き合いが今に続く小学の同級生たちも、昔はここで手習いをしていたのです。

当時の師範は母と同年輩。跡を継いだ娘さんは、わたしと同級でした。

園への往き還りには必ず、塾の塀に月替わりで掲げられるお弟子さんたちの作品展示を眺めることになります。

達者な筆遣いからすると、相当に心の据わったご年配の方か、もしや三代目か四代目のお若い師範の手になるものかと想像するのですが、今回はこのような書が張られていました。

告白を見守っている桐の花

句の巧拙は分かりません。好みからすれば、そもそも恋心を伝えるのに「告白」という言葉を使うのは適切を欠くと思え、そもそも俳句としてはどうなのか、疑問です。

近ごろは告白すなわち求愛のように使われているようで、いつも苦々しい思いをしていますので。「神対応」なんぞと同様に。

それはそれとして、梅雨に入る頃、重苦しくて動かない空気の中、枝の先に地味な薄紫の花をつける桐の樹のもと、若い男女が真剣な思いで対しているという景色には同情できます。

その句は書かれた方の作なのか、お若い頃の自らの情況を思い出して詠まれたのかなどと、様々にまた想いは広がるのです。

どれほど前のことだったか、ここにやはり思い詰めた恋心と、たしか夕陽を絡ませて謳った句があったのですが、当然のことながら思い出せない。写真に撮り、フェイスブックかブログにまとめたはずなのが、見つかりません。

何よりも、それを目にして驚いたのは、その書は遠い昔にわたしが深く思っていた方の名によるものだったのです。その方は中学の時、塾の師匠と同じ組でした。

相手に募る気持ちを打ち明けたいが、どうしても言えない。そうしたもどかしい思いを詠んだものでした。その思いがこちらのものともなく、あの方のものともなく、遥か時を経て共に持てたようで、哀しくはあれ、ある種の安心も得られた気がしたものです。

以来、花木園に通うごとに展示板には前に増して気をつけていますが、当人かどうかは知れずとも「あの方」の名前には出会えません。




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