帰り道はいつも寄り道。野毛『福田フライ』は久しぶりーー横浜本牧行 3

本牧通りが賑やかだったという話は聞くが、いつの頃だったか、どのような風俗が繰り広げられていたのだろう。

伊勢佐木町の伝説になっている居酒屋「根岸家」が栄えていた頃と重なるのか、売春禁止法施行の1958年あたりまでだったのか、それともグループ・サウンズが流行った頃までだったか、とすれば、こちらが中学生時代以前のことだから、分かるわけもないか……などと想像する。

関内のバー『道』で諸先輩から伺っていたとも思うが、なにせヘベレケで聞いているので、頭に残っていないのが悔しい。

小学校の遠足で三溪園に行ったのだろうか、金網の柵が通り沿いに延々と続いていたおぼろげな記憶はあるが、あれは米軍の接収した住宅地だったのだろう。

この通りをずっと南に下った根岸の丘の上に米軍のキャンプがあったのはよく覚えている。「日本の中のアメリカ生活」を覗き見に行ったのは何十年も前のこと。なだらかにうねる丘全面が芝地で、平屋のアメリカ式住宅が点在していた風景は、今はどうなっているのだろうか。

ーー昔話をし出すのは歳をとったということだなと、つくづく思う。

今を語ろう! などといっても、本牧で草木の写真を撮った後は飲み屋の与太話しかできないのが何とも寂しい無教養。

翌日が年に一度の健康診断というのに、したたかにやってしまった。

寿司と蕎麦の『江戸清』に入ると、勘定場にいた顔なじみのお嬢さんに目顔でコンニチワをし、すでに時分どきを過ぎていたので、空いていた奥の四人席に座らせてもらう。

ぬたで一本、ふきのとうの天ぷらでもう一本進めるうちに、空きっ腹への燗酒の効きはすさまじく、頭のタガが完全に外れてしまい、盛り蕎麦とともにもう一本お願いしたかどうか、この店は料金明細を出すようなゲンキンなところではないので、分からない。

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帰りは桜木町までバスで戻るほかなく、とすれば立飲み『石松』に寄るしか道はない。

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石松で濃いウーロンハイをもらった後に野毛小路をふらついていると、串揚げの『福田フライ』には珍しいことに客が入っていない。

まだ夕方四時過ぎなので準備中だろうな思いながら、カウンターの中の兄さんに尋ねると、どうぞと言う。ありがたし。

あさりとポテトを二本づつ「辛いの」で頼む。ニンニクと唐辛子をうんと利かせたソースで、苦手なら「ソースで」と注文する。

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以前は店先に置いていたフライヤーが奥に変わっていて、その前に立って瓶のビールをちびちびやっていた。酔い覚ましのつもりだったかどうか。他に客も来ないので、揚げ場担当の店主に「もう何年もご無沙汰してんだけど、お母さまはお元気で?」と尋ねてみると、三年前に他界したという意外な返事だった。

この店は初め、おっかさん一人で揚げ物も酒出しも勘定もこなしていた。凄い店だった。大変なおっかさんだった。暮れの大掃除には今のご店主もその中にいたであろう息子たち娘たち総出で、にぎやかに店全体を洗い上げていた。

改装して今の構えになり、店員の構成も献立も道具の配置も少しずつ変わり、おそらく現在のまま続いてゆくのではないかという気がする。店主と若者の二人、フライものを中心にして、現店主がはじめ力を入れた刺身類も少し提供するという形で。

客は一頃ほどではなくとも、いつも一杯の様子。なぜなら、いつも入店する気になれないので。だから奇をてらうことはない。普通のものを普通に吟味して出してくれればいい。

この夕方、店主は揚げ油に浮かぶ揚げカスを、神経質と思えるほどに小まめにすくい上げていた。それで良いのだと思う。

むかし、おっかさんは夕方の開店前に大量のラードを揚げ鍋に移していた。ラードだけで揚げていた。はたして今も同じなのかどうか、今の店主に確かめられる日が来るのかどうか分からない。

帰り際に代金の釣りの中から一枚、「包まなくて失礼だけど、お線香代に」と渡すと、素直に受けてくれたので、おっかさんの顔が近くなった心持ちになれた。

ーーと、これでまた頭がおかしくなり、バー『道』が開くまでのツナギに、蕎麦の『利休庵』に寄ってしまい……ついには当然ながら、翌日の健康診断は延期する破目となる、毎度ながらロクでもない午後であった。




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