伊勢参宮記 3――効験あらたか、豊川閣 長壽薬師如来
豊川稲荷妙厳寺から少し離れたところにある薬師堂にお礼参りすることが、このたびの一泊行の主な目的だった。
このツアー――熱田神宮も含む三社参り――には、ことしの春にも参加していたのである。その時、豊川稲荷に着く直前のバスの中、尻ポケットに入れた携帯電話が激しく震えた。ケータイが鳴るなど、ブログ子にしては珍しいこと。
横浜に住む母からだった。父が、胸の痛みがひどく、救急車を呼んだところという。年来、狭心症だったが、五年ほど前、カテーテル手術により血管を拡げる管を差し込み、症状は解消していたのだが……。
それにしても困った。よりによって遠隔の地に来ていて、何も施すすべがない。旅を中止し横浜に戻ることを、とりあえず添乗員に告げた。
いっぽう、妻に連絡して母に同道することを頼むとともに、静岡の裾野在住の弟にも、病院に急行してくれるよう伝えた。
「豊川にいる間はこれ以上に計らうことはできない。二時間後には名古屋に着く。そこから横浜に引き返そう」と思い定め、当面はしばらく旅を続けることにした。病院に運ばれた結果、重篤でない場合も考えられたので、様子を見ようとしたのである。
ここに親不孝のブログ子がいる。真に親を心配するなら、最寄の駅から豊橋に出て“こだま”に乗っていたはずだ。今にして忸怩たるものがある。言い訳がましいことながら、「豊川―豊橋」の路線の存在に気がつかなかった。
食事する気も起きないが、豊川稲荷の境内から出て街を見て回っていると、「薬師堂」が路地の奥にあるようだったので、これ幸いと進み入ってお堂の前に立った。一心に心経を唱え、父親の無事を祈った。切実の祈り。
御朱印をいただこうと御堂の受付に回ると、意外や、老婦人二人が白い割烹着を着けて裁縫をしていた。
そのうちの一人が「奉拝 長壽薬師如来 平成二十四年三月十七日 豊川閣」と記された札を朱印帳に貼ってくれた。彼女は日付だけを書き入れた模様である。そのとき、お参りした事情を伝えようとしたが、なぜか感情が激して、震え、言葉に詰る泣き声でようようのこと、父親の危機を話した。
その人は優しく懇々と慰めてくれたうえ、ちょうど薬師さまがおまつりで餅が供えてあるのでと、それを施してくれた。ブログ子と妻、そして、父母が食べればきっと効き目があると……。涙ながらに押し頂いてその場を去るのだった。
けっきょく、父親は何の異状もなかった。また痛みも、救急車に長く乗っているうちに、いつしか消えていた。
弟から電話が入り、旅行は続けて差し支えない旨を聞いたのは、名古屋市内の熱田神宮を発つころのこと。深く安堵したことだった。
薬師さまへの祈りが通じたのかどうかは、分からない。
八月の半ばになって、このときと同じツアーがあることを知り、薬師堂の婦人に礼を言いに行こうと決めた。
晴れ晴れと報告し、明るく礼の品を渡せばよかったものを、その方の姿を見て、声を聞くと、なぜかまた涙が湧いてきてしまい、濡れくぐもった声で、ようよう父の具合が回復したことを伝えたのだった。
「直ったのね? 大丈夫なのね?」と確かめられるのに、ただうなずくばかり。
薬師さまの堂守は、永年お傍にいることで、薬師さまの慈悲慈愛を丸ごと受け継いでいたものとみえる。
そうだとすれば、ブログ子は薬師さまに直接、辛うじて言葉を伝えようとしていたのだ。有り難すぎ、まばゆすぎて、言葉など発せるわけもない。通ずるとすれば、一心、且つ無心の祈りしかないのであろう。
このツアー――熱田神宮も含む三社参り――には、ことしの春にも参加していたのである。その時、豊川稲荷に着く直前のバスの中、尻ポケットに入れた携帯電話が激しく震えた。ケータイが鳴るなど、ブログ子にしては珍しいこと。
横浜に住む母からだった。父が、胸の痛みがひどく、救急車を呼んだところという。年来、狭心症だったが、五年ほど前、カテーテル手術により血管を拡げる管を差し込み、症状は解消していたのだが……。
それにしても困った。よりによって遠隔の地に来ていて、何も施すすべがない。旅を中止し横浜に戻ることを、とりあえず添乗員に告げた。
いっぽう、妻に連絡して母に同道することを頼むとともに、静岡の裾野在住の弟にも、病院に急行してくれるよう伝えた。
「豊川にいる間はこれ以上に計らうことはできない。二時間後には名古屋に着く。そこから横浜に引き返そう」と思い定め、当面はしばらく旅を続けることにした。病院に運ばれた結果、重篤でない場合も考えられたので、様子を見ようとしたのである。
ここに親不孝のブログ子がいる。真に親を心配するなら、最寄の駅から豊橋に出て“こだま”に乗っていたはずだ。今にして忸怩たるものがある。言い訳がましいことながら、「豊川―豊橋」の路線の存在に気がつかなかった。
食事する気も起きないが、豊川稲荷の境内から出て街を見て回っていると、「薬師堂」が路地の奥にあるようだったので、これ幸いと進み入ってお堂の前に立った。一心に心経を唱え、父親の無事を祈った。切実の祈り。
御朱印をいただこうと御堂の受付に回ると、意外や、老婦人二人が白い割烹着を着けて裁縫をしていた。
そのうちの一人が「奉拝 長壽薬師如来 平成二十四年三月十七日 豊川閣」と記された札を朱印帳に貼ってくれた。彼女は日付だけを書き入れた模様である。そのとき、お参りした事情を伝えようとしたが、なぜか感情が激して、震え、言葉に詰る泣き声でようようのこと、父親の危機を話した。
その人は優しく懇々と慰めてくれたうえ、ちょうど薬師さまがおまつりで餅が供えてあるのでと、それを施してくれた。ブログ子と妻、そして、父母が食べればきっと効き目があると……。涙ながらに押し頂いてその場を去るのだった。
けっきょく、父親は何の異状もなかった。また痛みも、救急車に長く乗っているうちに、いつしか消えていた。
弟から電話が入り、旅行は続けて差し支えない旨を聞いたのは、名古屋市内の熱田神宮を発つころのこと。深く安堵したことだった。
薬師さまへの祈りが通じたのかどうかは、分からない。
八月の半ばになって、このときと同じツアーがあることを知り、薬師堂の婦人に礼を言いに行こうと決めた。
晴れ晴れと報告し、明るく礼の品を渡せばよかったものを、その方の姿を見て、声を聞くと、なぜかまた涙が湧いてきてしまい、濡れくぐもった声で、ようよう父の具合が回復したことを伝えたのだった。
「直ったのね? 大丈夫なのね?」と確かめられるのに、ただうなずくばかり。
薬師さまの堂守は、永年お傍にいることで、薬師さまの慈悲慈愛を丸ごと受け継いでいたものとみえる。
そうだとすれば、ブログ子は薬師さまに直接、辛うじて言葉を伝えようとしていたのだ。有り難すぎ、まばゆすぎて、言葉など発せるわけもない。通ずるとすれば、一心、且つ無心の祈りしかないのであろう。
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