極私的鬱屈からの脱出法
昨夏、久しぶりに晴れたと思った鬱は、晴朗な日々もほぼ三か月、秋分を過ぎ、夜が長くなるころにはぶり返し、苦しい日々を送っていた。週に一日二日は仕事に出られないことが続き、ここ二月ほどは、それがなおひどく、ようやくの思いで週の半分ほどを、無理を押して通勤していた。
出勤したとしても、午前中はまったく頭が働かない。仕事に対する意欲のかけらも出てこない。水を飲んでは便所に通うことをくりかえしていた。
昼食を食う気にもならず、職場から少し遠いところにあるコンビニ・ストアに行って、きまって「わかめむすび」を一つだけ買い、帰り道にある公園のベンチでよく噛みながら食べる。そして、残った休憩時間は、勤め先の敷地内にある森に向かって力なく立ち、数分間を茫然として過ごす。辛い時間だ。長くは居られない。しかたなく職場に帰っても、何もすることがないから、昼休みながら、仕事をしている振りをしなければならない。
それも、午後の中盤になると、我ながら人が変わったように仕事の筋がはっきり見えるようになる。現在進めている仕事を効率的に済ませる方法を考え付くことはもちろん、将来を視野においての当該業務全体のあり方まで見えてくることもある。いきおい、調子がいいときは残業に及ぶ。しかし、上司はそれを喜ばない。「明日で間に合うことは、残業しないでやれ」と。「クソったれ、明日になっちゃできないから今やっているんだ!」
もちろん精神科医には通っているが、わたしがあと四年ほどで退職するとはっきり言っているせいか、すでに匙を投げられた格好で、こちらの窮状をひとしきり話し、自分なりの心構えについて問いかけると、「うン、じゃぁ、それでまたひとつ、やってみてください。次は何週後にしますか」――とおっしゃるだけの診察なのである。
朝、目を覚ましてもベッドから抜けられず、その日に起こるであろう仕事を思い描き、上司や同僚などの反応を想像する。それだけで気分が重くなり、なお縮こまらざるをえない。それでなくても、無力感、倦怠感、おっくう感が強くて何もできない。
この一週間、続けて休まざるを得なかった。前半は毎朝毎朝、苦しい思いをして、「きょうはダメだ」と自ら断を下して、休暇をメールで願い出ていた。電話は到底できない。声が出ない、相手と話せないのである。これでは毎日がキツイばかりである。そこで、週の後半は、週末を含めてまとめて四日の休みを取ることに決めてメールを送ると、いっぺんに気が楽になった。「ゆっくり、ゆったり構えるんだ」――。そうすると、先が見えてきた。力が戻ってくる予感がした。普通に暮らすことが基本だ。仕事はそこに自然に織り込まれればいい。
さらにこの、「仕事が付随する生活」を続ける手段として、読書の楽しみを思い出した。
がんらい、読書は苦手である。致命的なのは、実に、自宅では読むことができないのである。しかし、若い頃は通勤時間が長かったので、電車内で文庫本に限らず、分厚い単行本を読むこともいとわず、かなりの量を読み込んでいたつもりだ。ところがここ数年は、勤務地が自宅の近くに変わり、読書時間はなくなっていた。
ところがこの節、午前中は寝床で暮らしていても、夕方になると地下鉄で下町に飯を食いに行く生活が続いている。そこで、久しく本棚に積みおかれた英国海洋冒険小説「海の覇者トマス・キッド」第4巻『愛国の旗を掲げろ』ジュリアン・ストックウィン著(ハヤカワ文庫NV)を持って地下鉄に乗るようになり、少しずつ読み進み、ついに昨日、電車以外でも公園や駅の構内で読むことができることに気が付いた。どんどん読み進められた。
これを通勤に利用しよう――と思いついた。夏の時期は五時には目が覚める。そこで、すぐに出勤仕度をして、直ちに出かけよう。出勤簿(わが社はタイムカードではないのである)が置いてある棟はまだ開いていないから、他の建物の中で本を読んでいればいい。こうすると、本は読めるし、何より、朝に家を出るのをためらっているヒマがなくなり、自然に出勤できるだろう。本の面白さをダシに自分を家の外に引き出せる。「仕事をしに行くんじゃなくて、本を読みに行こう」と、ふらちな考えをもって、とにかく職場に行く。そう思い決めた次第である。
うまく行くかどうかは神のみぞ知る。とにかくやってみなければ…。
出勤したとしても、午前中はまったく頭が働かない。仕事に対する意欲のかけらも出てこない。水を飲んでは便所に通うことをくりかえしていた。
昼食を食う気にもならず、職場から少し遠いところにあるコンビニ・ストアに行って、きまって「わかめむすび」を一つだけ買い、帰り道にある公園のベンチでよく噛みながら食べる。そして、残った休憩時間は、勤め先の敷地内にある森に向かって力なく立ち、数分間を茫然として過ごす。辛い時間だ。長くは居られない。しかたなく職場に帰っても、何もすることがないから、昼休みながら、仕事をしている振りをしなければならない。
それも、午後の中盤になると、我ながら人が変わったように仕事の筋がはっきり見えるようになる。現在進めている仕事を効率的に済ませる方法を考え付くことはもちろん、将来を視野においての当該業務全体のあり方まで見えてくることもある。いきおい、調子がいいときは残業に及ぶ。しかし、上司はそれを喜ばない。「明日で間に合うことは、残業しないでやれ」と。「クソったれ、明日になっちゃできないから今やっているんだ!」
もちろん精神科医には通っているが、わたしがあと四年ほどで退職するとはっきり言っているせいか、すでに匙を投げられた格好で、こちらの窮状をひとしきり話し、自分なりの心構えについて問いかけると、「うン、じゃぁ、それでまたひとつ、やってみてください。次は何週後にしますか」――とおっしゃるだけの診察なのである。
朝、目を覚ましてもベッドから抜けられず、その日に起こるであろう仕事を思い描き、上司や同僚などの反応を想像する。それだけで気分が重くなり、なお縮こまらざるをえない。それでなくても、無力感、倦怠感、おっくう感が強くて何もできない。
この一週間、続けて休まざるを得なかった。前半は毎朝毎朝、苦しい思いをして、「きょうはダメだ」と自ら断を下して、休暇をメールで願い出ていた。電話は到底できない。声が出ない、相手と話せないのである。これでは毎日がキツイばかりである。そこで、週の後半は、週末を含めてまとめて四日の休みを取ることに決めてメールを送ると、いっぺんに気が楽になった。「ゆっくり、ゆったり構えるんだ」――。そうすると、先が見えてきた。力が戻ってくる予感がした。普通に暮らすことが基本だ。仕事はそこに自然に織り込まれればいい。
さらにこの、「仕事が付随する生活」を続ける手段として、読書の楽しみを思い出した。
がんらい、読書は苦手である。致命的なのは、実に、自宅では読むことができないのである。しかし、若い頃は通勤時間が長かったので、電車内で文庫本に限らず、分厚い単行本を読むこともいとわず、かなりの量を読み込んでいたつもりだ。ところがここ数年は、勤務地が自宅の近くに変わり、読書時間はなくなっていた。
ところがこの節、午前中は寝床で暮らしていても、夕方になると地下鉄で下町に飯を食いに行く生活が続いている。そこで、久しく本棚に積みおかれた英国海洋冒険小説「海の覇者トマス・キッド」第4巻『愛国の旗を掲げろ』ジュリアン・ストックウィン著(ハヤカワ文庫NV)を持って地下鉄に乗るようになり、少しずつ読み進み、ついに昨日、電車以外でも公園や駅の構内で読むことができることに気が付いた。どんどん読み進められた。
これを通勤に利用しよう――と思いついた。夏の時期は五時には目が覚める。そこで、すぐに出勤仕度をして、直ちに出かけよう。出勤簿(わが社はタイムカードではないのである)が置いてある棟はまだ開いていないから、他の建物の中で本を読んでいればいい。こうすると、本は読めるし、何より、朝に家を出るのをためらっているヒマがなくなり、自然に出勤できるだろう。本の面白さをダシに自分を家の外に引き出せる。「仕事をしに行くんじゃなくて、本を読みに行こう」と、ふらちな考えをもって、とにかく職場に行く。そう思い決めた次第である。
うまく行くかどうかは神のみぞ知る。とにかくやってみなければ…。
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