初夏京都行 一

初日……この前に京都を訪ねたのは七,八年前の春だったろうか。新幹線を降りると、ムッとくる蒸し暑さだった。はじめから半ズボンをはいていたので,汗が出ることはなかったが,とにかく湿気が強く,息苦しいほど。

その土地の人たちにとっても,暑さは相当なものであったという。出入りする店ごとに,今日は特別に暑いといっていた。漬物屋,おばんざいの定食を出す店。飼い猫が吐いたとも。

地下鉄で烏丸丸太まで行き,堺町三条の〔イノダコーヒ〕本店へ。高い天井近くまであるガラス戸越しに裏庭が望める。席はすべて丸テーブルで,五人掛け。ひとりでゆっくり新聞を読む老人もいた。それでも合い席はさせないで,新来の客は待たされる。老人が多い。

とうぜん,アイスコーヒーを頼んだ。注文をとるときに砂糖とクリームをどうするかと聞かれる。質実なる京都。コーヒーが来た。香りが強く,味わいも濃厚。水のグラスが半分くらいに減ると,女店員さんが何度も新しいグラスに替えに来る。心憎いほどのていねいさ。老舗を感じた。それに水が軟らかく,自然な味わいだ。暑さに渇いた喉のせいばかりではあるまい。

汗も引いたのでぶらぶら歩き始めた。幸い,曇り空。

奇妙だった。横浜から何百キロも離れた土地に,同じような街があり,人が行き交い,物が売られ,同じような車が走っていることが。同じ時間が流れ,空間が広がっている…。当たり前だが不思議だ。高揚した旅人の思い過ごしだろうか。あるいは一時的な根無し草の感傷か。

四条大橋を西に向かって渡る。勤め帰りの人々にもまれるように。しかし,現実感がない。夕方七時近いのにまだまだ明るく,人々は夕映えの中を歩いている。こちらは休日をひたすら味わっている。しみじみと嬉しさを感じている。

新京極に〔スタンド〕という安直な居酒屋兼食堂があるというので,行ってみた。京都の街は碁盤の目。すべての通りに名が付いているから,旅人が迷うこともない。新京極は東京の街と変わるところのない今風の賑やかな通り。まさにファッション・ストリートだ。異なるのは,通りから引っ込んでいて何かと思うと,小さな寺社があることくらい。昔,中学の修学旅行で来たときは,土産物屋ばかりだった記憶があるのだが…。

その店は容易に見つかった。周りのどの店とも似ない旧式な店のたたずまい。東京なら「ミルクホール」のような存在か。レジスターが木製。しかし,使われてはいない様子だ。おそらく昭和のはじめ頃に建てられたままだろう。この街は戦災がなかったから。丸テーブルが壁に沿って三つか四つ。間口は狭く奥行きがある京都の家の定法どおり。幅四十センチほどの細長いカウンターが奥に向かって延びている。それでいて対面式。両側に丸椅子が連なっている。幸い奥のテーブルが空いていたので,他人様と面付き合わせて飲むことはなかった。

瓶ビールをまず頼む。当然のごとく,キリン・ラガー。オムライスほかトンカツ,コロッケの定食もあるが,それは通過してラッキョウ三五〇円を注文した。何の変哲もない,関東と同じ味と舌触りだった。ほかにはコンニャクのスジ煮込みや「きずし(関東でいう〆鯖)」・・・がある。

テーブルに置かれた伝票がふるっている。上の方に赤字で右から左に「スタンド」と書いてあるのだ。これで,この店は戦前からあったことが窺われる。それに,伝票には一面に「一〇〇,一〇〇,五〇,三〇…」などと数字で埋め尽くされ,そこに,注文したものの値段が赤鉛筆の○や×で表示されている。一寸見たところ,解読は難しかった。

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三人の年老いた女店員さんがこまごまと働く。風の通りが良いのか,冷房の気配はないのに涼しく,タバコの煙も気にならない。穏やかにいつまでも座っていられる落ち着き加減は,東京浅草の〔神谷バー〕より枯れていて,優っているかもしれない。正真正銘の居酒屋がそこにあった。

ようよう暗くなりゆく頃,錦小路の中ほどを上ったところにある定食屋〔柳馬場錦亭〕に移った。気づかなければ通り過ぎてしまいそうな,間口一間ほどの小体な店だった。

入ってビールを頼むと,大瓶ならキリン,中瓶ならアサヒという。とうぜん,大瓶を頼む。しかし,「いま舌平目の下ごしらえをしているところであと三匹だから,少し待ってくださいね」と。一癖有りそうな小柄で痩せた中年の女性ひとりで切り盛りしているらしい。急ぐ旅ではない。カウンター――といっても席はないが――にぎっしりと並べてある本からアンリ・カルチエ=ブレッソンの写真集を取り出して眺めていた。一枚一枚の写真の構図に捉われがなく,しかし厳密なカタチになっていることに改めて感心しながら。

しばらくしてビールがやってきた。定食だけれど出来あがったものから運んでくれるように頼んであったので,おばんざい三種も追って出てくる。切干大根,高野豆腐,干椎茸,をそれぞれ煮たもの。刺身は,俊の鱧の切り落とし,鰹のたたき,槍烏賊。焼き物は秋刀魚の蒲焼,それに舌平目のソテー。あとは鱧のアラをダシにした味噌汁と筍の味噌漬けとご飯。これで一五〇〇円也。

食,満ち足りた一日。

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